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メールマガジン「Cカンパニー通信」で好評連載中の『東京下町のバッグ工房、50余年のものがたり』Cカンパニー創業者渡辺政光の上京から今のCカンパニーに至るまで。


Vol.1 ガキ大将

 

山形村山市白鳥
やんちゃなひとりの少年がいた。

ある時は、親戚のすいか畑のすいかを
すべてダメにしてしまう。

お仕置きで納戸へ入れられることは
もう馴れっこだった。

ただ、自分がしたことで
母親がじいちゃんに叱られる姿を見るのは辛かった。

貧乏な百姓の家。
じいちゃん、ばあちゃん、父と母。
両親は子どもを8人授かった。
だが、貧困による病気などで幼くして死に
生き残ったのは4人だけだった。

身体が弱く大人しく成績の良かった兄。
やんちゃな次男坊だった少年は
中学を卒業すると農業高校へ入学した。

兄には勝てないが、
そこそこ勉強はできたし
学ぶことは好きだった。

入学して半年後
かばん職人にならないかという話が舞い込む。
当時、手に職を付ける職人になることは
若い男たちの憧れだった。

終戦から10年にも満たない時期。
夜間高校に行かせてくれて
職人にもなれるという話に
少年は飛びついた。

父と母は何も言わなかった。

じいちゃんだけが、
「一人前になるまで帰ってくるな。
かばんを作るだけでなく、
かばんを持つ男になれ」
と言って送り出した。

 


Vol.2 職人見習い

 

終戦から7年後の東京都墨田区。
政光が職人見習いをはじめた地だ。

兄弟弟子は7人いた。
すぐに道具に触ることは許されず
雑用が多かった。

時には、自転車付きのリヤカーを曳いて
川崎まで納品に行き
帰りが夜中になることもあった。

学校へ通う時間はなかった。

親方は旅行用鞄制作技術において
第一人者と評された名人だった。

道具を見れば腕がわかる。
親方の持論だ。

親方は道具の手入れは誰にも任せなかった。

親方の仕事を覚えよう。
道具の扱い方、手入れの仕方。
親方の技術を盗もうと
必死で見て頭に叩き込んだ。



「革漉き機なんて無かった時代。
革漉き包丁で均一な厚みに
革の裏側を漉いて行く様は
それはそれは見事だった」
と、生前、政光は何度も話している。

親方のような職人になってみせる
と寝る時間も惜しんで働いた。

年月が経つにつれ
ひとり、またひとりと
兄弟子たちは独立していった。

通常3年で年季明けのところを
政光は5年かけて独り立ちすることになる。

名人の元で5年間の修行を重ねた政光は
兄弟子たちから一目置かれる
腕前となっていた。



Vol.3 独立・結婚

 

5年の職人修行で
職人となった政光の元へ
郷里から縁談の話が入ってきた。

同郷の山形出身で
東京で働いていた
ひとつ年下の娘とお見合いし
結婚することになる。

妻の名はテイ子。
商いの家に育ったテイ子は
ほがらかで人当りの良い女性だ。

上京後は着物を縫う
お針子の修行をしており
手先がとても器用だった。

すぐに職人の下仕事を覚え
政光の仕事を手伝うようになる。

結婚から一年後、長女を出産。


洗濯機も電話もない借家暮らし。
赤ん坊を入れたハンモックの先を
ミシンにつないであやしながら
ふたりで必死に働いた。

当時、夫婦が住んでいた借家は
隣の家とは壁一枚の長屋だった。

朝から夜遅くまで聞こえる
金槌をたたく音やミシンの音が
近所の迷惑になることもあり
やむなく引っ越しを繰り返していた。

気兼ねなく仕事ができる一軒家が欲しい。
ふたりの願いだ。

家が広くなれば弟子を入れることができる。



Vol.4 弟子の独立と会社設立

 


柳橋・卯野・齋藤
3人の弟子が入ってから3年。
他にも職人見習いが出たり入ったりしていた。
多い時には6人の弟子がいた時期もある。

家も増築し仕事場を大きくした。
仕事場といっても、夜はそこに布団を敷いて弟子たちが寝る寝床としても使った。

さらに2年後。
3人の弟子たちもそろそろ独り立ちの時期だ。

弟子が独立したなら
3人の職人と自分、4軒分の仕事を取ってくる必要がある。

それはもう職人として仕事をもらうだけでは追いつかない量だった。

職人たちに仕事を廻すメーカーになろう。
政光はそう考えた。

メーカーをやるためには、大きな裁断機が置ける広いスペースが必要となった。

昭和46年、隣町の瑞江に工場をたてた。
また、同時に会社を設立。

株式会社光美バッグというOEM専門のメーカーだ。

政光が考えたメーカーのかたちは
革の裁断、革漉きなどを済ませた革や裏地、ファスナー、金具といった
材料一式を工場でそろえ職人にわたす。

職人たちは渡された材料をまとめ製品にして納品する、というものだった。

なお、会社設立にあたり
一旦独立した卯野がサンプル職人として会社に入ることになった。

政光は社長になった。

とは言え、現実は
昼は職人として製品をつくり
夕飯を済ませた後、職人のもとへ材料の配達や製品の集荷に走った。

いわば二足のわらじ状態。
政光は朝から夜遅くまで必死で働いた。

そして、株式会社光美バッグ設立後まもなく
政光に大きなチャンスが訪れる。




Vol.5 ビッグ チャンス


株式会社光美バッグを設立してまもなく、取引先の皮革屋から

「ある会社が新しい事業として、ハンドバッグをつくりたいと言っている。
一度、相談に乗ってくれないか」と声が掛った。

それは、フランスの有名ブランドと
ライセンスを結べるかどうかを決定するためのサンプル制作の話だった。

その会社は都会にビルを6つも所有する大きな会社だった。
けれど、皮革製品については、全くの素人だ。

異なる事業のデザイナーが描いた図面も完成度は低かった。

もともと職人である政光はデザイナーの意図を聞き
アドバイスと話し合いを繰り返しサンプルをつくって行った。

何度も試行錯誤を重ねできあがったサンプルのバッグは
フランスへ渡り見事ライセンス契約の許可を取り付けた。

以後、政光の評判を聞いたデザイナーから
どんどん新しい仕事が舞いんだ。

つくっても、つくっても、間に合わない。そんな日が続いた。

設立当初、たった2軒の下請け職人は40軒近くになっていた。




Vol.6 職人は糸の色ひとつ決めることはできないんだ


下請け職人が40軒近くいた頃。1型300個、600個 合計900個。
今思うと、夢のような注文がどんどん入ってきた。
 
日中は職人として製品を作る仕事をし、夕食後、職人たちの家を回り製品を回収する日々。
 
下請けメーカー株式会社光美バッグとして
自分の家族と社員の家族、職人たち家族が暮らしていけるだけの仕事はできるようになっていた。
 
日曜日は、銀座や日本橋のデパートに行き、
ショーウインドウに飾られた自分たちが作ったハンドバッグを見て
その後、デパートの食堂でご飯を食べることが楽しみだった。
 
「これもお父さんの会社でつくったんだよ」
 
政光は、ショーウインドウに並ぶバッグを見せながら、
一緒に歩く娘に話して聞かせた。
 
百貨店の1階の一番目立つ場所に飾られたハンドバッグ。
 
娘は単純に、お父さんってすごいんだと思った。
この単純な娘が、著者である私、ワタナベアケミだ。
 
父が私に何度も言った。
 
「どんなに綺麗な鞄を作れたとしても、職人は糸の色ひとつ決めることはできないんだよ」
 
「デザイナーは良いぞ。自分が欲しいと思ったものを職人さんに作ってもらえるんだ」
 
押し入れの中の壁にも、食器棚の引き出しの裏にも、油性ペンで絵を描いてしまう。
絵を描くことが大好きな娘は、いつの間にか、デザイナーになることが夢になっていた。
 
そして、政光40歳の時、待望の男子が生まれた。
 
政光はますます仕事に精を出した。




Vol.6 公園前の白いビル


下請けメーカーとして様々なブランドのバッグを作ってきた株式会社光美バック。

創業者渡辺政光の娘であるワタナベアケミは美大を卒業しグラフィックデザイナーを経てバッグデザイナーになっていた。
けれど、下請けメーカーではデザイナーは必要なかった。

そんな折り、下請けをしていた会社が事業部ごとブランドを引き受けてくれないか?
という話が来た。それが「C COMPANY LIMITED」だった。

引き受ける程、余裕があった訳ではない。けれど、政光にとってはチャンスだ。

考えた末、「C COMPANY LIMITED」を引き継ぐことにした。

数年後、息子も大学を卒業し株式会社シーカンパニーに入社。
父とは離れた場所で先輩方から仕事を叩き込まれた。

政光51歳の時、工場があった場所が区画整理のため立ち退きの必要に迫られた。

それを機に、政光は念願のビルを建てることにした。
その時建てたビルが現在のCカンパニーのビルだ。

春になると桜が咲く公園に面した3階建の白いビル。
夏には屋上から江戸川の花火を見ることができる。

スタッフにとっては仕事場であり、家族にとっては憩いの場だ。

ビルに引っ越してから10年後政光は様々な病気になった。
65歳からの10年間は病魔と闘いながらの仕事だった。

自分の死期を悟り、株式会社光美バックが株式会社シーカンパニーを吸収合併。
株式会社シーカンパニーに社名を変更した。

政光75歳、東日本大震災があった年の4月20日
家族に見守られて笑顔で息を引き取った。

今年2017年は七回忌にあたる。

父が亡くなってから6年。今も会社を続けることができている。
それはひとえにお客様あってのことだ。

自社ブランドもC COMPANY LIMITEDの他に
FALCOLA、COLTIVA、FOR-TABITOと4つになった。

他社ブランドの下請け業も続けている。

本当に、本当に、ありがたい事だ。

職人の高齢化など問題はあるけれど
一歩一歩着実に歩み続けることができれば幸せだ。

(おわり)